さらにさらヤマ
うーむ、非道いシナリオ含めて愛されてしまわれるとこちらとしては云い返せませんです。でも書く。
集団ヒスと云うのは強い表現なので、ちゃんと説明するのが筋で御座いますね。
ドラマの作り込みは全然されてなくて、兎に角話をちゃっちゃか進めようとしてる。
テレビシリーズの総集編だったらしょむない事やも知らんなあと思うのですが。映画版バルディオスの前半みたいな。これも25年近く見てませんが。
なので、あっさりしすぎて、ノイズ混じりの正体不明のメッセージだけで反逆罪覚悟で発信元に行く、その覚悟が伝わらない。
主要キャラの死にっぷりもお安くて、なんかびっくり。山本の敬礼→撃墜とか、斎藤の立ち往生とか、「かっこいい死に方カタログ」みたいでグロテスク。加藤は2の方がかっこいい死に方だけど。
デスラーとの攻防の所くらいかなあ。ドラマとして充実してるように思えたの。これは前作の存在が大きい。小さい頃からタランが好きだったな。
で、あっさりしてるわりには主張はかなりきわどい。
「お前にはまだ命があるじゃないか」って恐い台詞、本来ならかなり野心的なシナリオだと思うんですけど、ただの無思慮の産物としか考えられません。全体の雰囲気が表層的だから。
嫌な話になりますが、ポリティカリー・コレクトネスの見地から云って、これが手放しで喜ばれて受け入れられたと云う状況が、どうにも理解出来ないのです。無邪気に過ぎる。誰か止めろよ、って云う違和感が、どうにもこうにも集団ヒスとでも云うしかないんじゃないかと思ったのです。
当時、誰も止めなかったのかなあ。SFアニメだから、子供の見るものだから、って事で、日教組とか当時五月蝿そうな人たちは珍しくスルーだったんでしょうか。
まとめると、総じて時間が長い割りには全てが表層的。その割には随分とエグい事を主張する。でも結局「愛」ってゆっておけばいいだろう、みたいな発想。
でもまあ「SFというのはあらすじが一番面白い」とヴォネガットもおっしゃってますから、そう思えば、まあ表層的でも、うーむ。
それと、何時も思う事だけど、舛田利雄・・・・カッコイイ映画ナンバーワンの『紅の流れ星』を撮った男が、『ノストラダムス』で壊れちゃったんだよなあ、多分・・・。本当、残念でなりません。