2001年日記の旅

ひょんな事であの頃は〜じゃなくて古い日記をひっくり返す事になったら、友人の某映画ライターさんに誉められたのが出てきて読み返したら面白かったのでもっと探しやすい所に転載しようってんでここに書いておく。

ひょんな事というのはたまたま今日アート・アンサンブル・オブ・シカゴの下記のCDを仕事BGMにしているからなのだが、そうそう何度も聴いてはいないのでまあつまり9年ぶりに聴いてるわけだ。

文体はネタでわざとそれっぽくしたのであって、俺のキャラではない。一応。あと、マァブルとはマーブルシープの事で、ジンタ、ルケーチ全部俺の在籍したバンド名であって、何の注釈もないのが尊大だが日記なので許して欲しい。

色々な意味で大間違いな所が恥ずかしくも甘酸っぱいのだけど、ひとつ明らかな事実誤認があって、ミュージック・リベレーション・アンサンブルはMusic Revelation Ensembleなので、略称はMREである。チャーリー・ヘイデンの戦う音楽家バンドの方とごっちゃになっておったらしい。以下引用開始。

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2001.12.13

 ネタも無いので、此処数日、珍しい位にツェーデーを買ったので、其れについてつらつらと。たまにはレビューも良いだろう。


■アート・アンサンブル・オブ・シカゴ 「'71年シカゴ大学ライブ」

 マァブル活動休止前、'94年だと思うが、俺はすっかりジャズにはまり、はまると云っても随分と好い加減だったので、云わば「岡はまり」と云う位のものだが、まだ新宿ルミネ2に有ったタワレコの試聴機で、此れを聴いた。

 其れまで俺は、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ(以下AEC)には、インテリ臭いイメージを持って居た。「アート」だの「シカゴ」だのの言葉の持つイメージもあるが、フリージャズと云うのはそう云う物だ、と錯視して居た若い野郎であっただけなのだ。

 当時丁度デルマークのAACM関連盤が一挙に再発され、今ではなかなか考え難いが、タワレコの試聴機に大半が入った。アントニー・ブラクストンやジョゼフ・ジャーマンらの名前は、此処で覚えた。実に骨の有る商品展開だったと思う。

 因みにAACMとはAssociation for the Advancement of Creative Musicians 創造的音楽家の発展のための協会(ひでぇ訳だが結構良いかも)の事である。

 試聴機の再生ボタンを押した刹那、其れ迄の俺の大いなる誤解は一気に解けた。「なんじゃこりゃ!」心の中の第一声だ。体中の毛穴が開き、体温が上昇したのが判った。

 例えて云うなら、ジェイムズ・ブラウンの「セックス・マシーン」。其のイントロでは、JBの掛け声と共に全パートがユニゾンで「チャッチャッチャッチャッ」とリズムを刻み始めるが、其のイントロが10分近く延々と続く音楽と思って貰いたい。

 其処へ被さるジョゼフ・ジャーマンのフリー・ブローイング。陰鬱さや暗黒面の欠片も無い。突き抜けた明るさ、溢れ出る圧倒的熱量。

 試聴機に置かれたデルマークのパンフをふと見る。其処には沢山の楽器に囲まれて、顔には土人メイクを施した彼らの姿があった。「多楽器主義」、と云う言葉に意味も無く痺れた。

 そうだ、彼らは黒人なのだ。此れはアフリカなのだ。其の時俺は、ジャズであるからには基本中の基本である其の事実に、ようやっと気が付いた。若かった。

 ふとレコジャケを眺めると、CD丸々一枚、1曲76分しか入ってない。4部構成になっており、それぞれに名前が付けられて居るのだが、最終楽章の題名にはこうあった。

「MATA KIMASU」

 最後にきちんと挨拶。何て良い人達なんだろう、と思った。いや実際は何語なのかさえ判らないのだが、俺にとっては真実等どうでも良い。彼らは「亦、来ます」と俺に約束して呉れたのだ。俺の中では其の事は厳然たる事実なのだ。此れは既に神話なのである。

 再会を誓い合った故、俺は此の時は購入を避けた。事実は其の時に金が無かったと云う事に尽きるが、神話の世界では、繰り返す様だが真実等どうでも良いのだ。俺は再会を信じて待った。

 当然の如くデルマーク再発シリーズはあっと云う間に廃盤となり、其の後店頭で見る事も無く、此の盤の存在も忘れ掛けて居た。

 7年が経った。奴等は誓いを果たした。中古売り場で、1000円と云うリーズナボーな価格で、俺を待って居た。

 マァブルは活動休止し、ジンタを結成し(そういやジンタのバンド名の候補でマタキマスってのも有ったな)、解散し、ルケーチに参加した此の時期に、彼らが再臨した事はとても偶然とは思えない。

 取りも直さずレジへと持って行った俺は、もう其の事だけで感動し、実はまだ一回も通して聴いてない。其れでも良いのだ。神話が完結した其の事だけでも、素晴らしく有意義な買い物であった。

 事実は単に、通して聴くだけ精神的時間的余裕が無いと云う事に尽きるが、神話の世界では、繰り返す様だが真実等どうでも良いのである。


ケニー・ウィーラー 「ヌー・ハイ」

 静寂の次に美しい音。

 マーク・ラパポートは其れを「女性の喘ぎ声である」と定義付けたが、そもそもはECMと云うレコード会社のキャッチコピーである。

 と云ってもECMと云う会社は喘ぎ声のレコードを出している訳ではない。可能な限り様々な要素を捨象して乱暴に云えば、「予算が無かったから、ソロピアノとかにリバーブを深くかけて、リリカルな雰囲気全開にして世界観を構築する」レーベルである。

 レーベル丸ごとマイルスのミュートサウンドみたいな会社だ。

 反論には即座に土下座する準備をしつつ話を進めるが。

 トランペットに関する記述をネットで読んで居ると、ケニー・ウィーラーと云うトランペッターはすこぶる評判が良い。

 マイルスにしろウィントンにしろ、熱心なファンと同時に熱心なアンチファンも生んで居るのだが、元々の知名度の相対的な低さが功を奏してか、ウィーラーに関しては否定的な意見が無いのだ。

 彼の作品の中でも最高傑作とされるのがECMでの第一弾である本作で、何せバックがキース・ジャレットデイヴ・ホランドにディジョネットだもんで、此れは買わねばと決心、給料日の勢いで買ってしまった。

 結果。ECMはやっぱり性に合わん。

 其れでも矢張り揺るぎ無き世界観と、其れを支える確実な技術には圧倒される。聴いて居て飽きる事も無い。一気に3回リピートして聴いた。事実、面白い。勉強にもなる。惚れ惚れする。

 しかし、神話の世界では、繰り返す様だが真実等どうでも良いのである。つっこみ所の無さが、逆に神話性を欠く原因となって居る。血が沸騰しないのだ。

 だからこそ、ECMなのだろう。価値の有る存在だ。だから俺は、性に合わん、としか云う事が出来ない。1回も通して聴いた事が無くても、重要なレコードも有れば、こう云うものも有るのである。


■ジェムズ・ブラッド・ウルマー 「ナイツ・オブ・パワー」

 ウルマーと云えばブラックロックでジミヘンである。世の中そう云う事になって居る。俺はあまり面白いとは思えない。

 最初に聴いたのが「ミュージック・リベレーション・アンサンブル(以下MLE)」名義の「イン・タイム」だったから、オーネット直系のすちゃらかフリージャズと、何とも云えないペランペランかつごっついギターの音に、してやられたのだ。衝撃だった。

 ハーモロディック理論と云う言葉も、彼の盤のライナーで覚えたんだった。其れを俺は、居酒屋でオヤジが「俺に云わせりゃ」と絡む「俺論」を、素面の状態で普遍化しようとしたものだ、と理解した。

 其のスリリングさと「ジャズ大名のラストシーン」度数の高さに比して、ウルマーの作品の大半を占めるブラックロック・ブルース路線と云うのは退屈極まり無い。せいぜいが、ジャン・ポール・ブレリーよかましかなぁ程度の感想しか抱けない。

 ギブソン・バードランドのリアピックアップの、ペランペランな音は、リズムの洪水の中を泳ぐには、此れ以上のものは無いと云う程に自由であり、輝く事が出来るが、ファンキーであろうとした時には、どうしても脆弱さを露呈してしまう。

 大きな理由として、まずもって「笑えない」のだ。此れは非常に大きい。

 此処数年、新譜が出て試聴機でチェックする度に「またかよおっさん」的落胆を繰り返して来た訳だが、いきなりいいこちゃんになると、其の「またかよ」の「また」を心待ちにして居る人々も多数居る訳であり、其の気持ちも案外と理解は出来るので、まぁ頑張って呉れよ、とエールを送るのにはやぶさかでは無かった。

 其れは、神代辰巳の映画を観て、あまり面白みを感じられなかった時と、感情の点で相似形を描いている。

 しかし、神代にも「ミスター・ミセス・ミス・ロンリー」が有る様に、ウルマーには「イン・タイム」が有る。其の夢をもう一度と思い、落胆を繰り返す訳だが、MLE名義の作品を中古で発見。「ナイツ・オブ・パワー」とある。もう其れだけで血圧が。脳から汁が。探したぜおい。今迄、ずっと待ってたんだ。すかさず値札を確認。

「300円」

 心から愛した女が、自分の落ち度で別れる事となり、其の後彼女がどうしようも無く安い男と腕を組んで歩いて居るのを、新宿のアルタ前で目撃してしまったのと全く同じ悲しみが、俺の体を駆け抜けた。

 果たして俺に救済されたツェーデーは、我が家にて高らかにハーモロディック理論の凱歌を奏でる。そうだ、其れで良いんだ。

 総理大臣の代わりは幾らでも居るが、ウルマーの代わりは居ない。ウルマーは既に勝新と同じ地平に立って居るのである。だからこそ、ジミヘンごっこはあんたの仕事ではないぜと、世話の一つも焼きたくなるのだ。

 いやま実際の所、300円は得したぜ、世の中捨てたもんでもないぜおい、と云う心持であった事は否めないのだが、神話の世界では、繰り返す様だが真実等どうでも良いのである。


ソニー・シャーロック 「ハイ・ライフ」

 亦ぞろ時は'94年に遡るが。其の年はギタリストが3人ばかり死んだ年だった。ジョー・パス、エリック・ゲイル、今一人が、ソニー・シャーロックである。

 同じジャズ売り場で見掛ける3人だが、其の音楽性は笑ってしまう位に、見事にバラバラである。

 当時、追悼企画だか知らぬが、80年代後半に出た彼の作品が一気に再発された。其の全てが件のタワレコの試聴機に入って居たのだから、本当に此の頃の新宿店ジャズ売り場はとち狂って居たとしか思えない。

 ソニー・シャーロックはフリー・ジャズにギターを持ち込んだ先駆けみたいな人である。と思う。

 此の「ハイ・ライフ」は'90年発表で、曲や演奏自体は左程フリーでは無い。其れどころか、必要以上に曲が良い。

 俺が其れ迄持って居た「アスク・ジ・エイジ」や「シーズ・ザ・レインボー」も80年代の作品だが、ギターの奏法は暴れまくりだのに、コード進行、テーマの持つ溢れるばかりのセンチメンタリズムが、此の人ならではの世界を醸し出して居る。

 単純な話、「泣ける」のだ。

 通常、ギターで「泣き」と云えば、ブルース・ギター的な「泣きのギター」を指すが、彼のギターは其処から遠い地平を見つめて居る。

 チョーキングはしない、ロングトーンはヨレヨレ、運指はガタガタ、歪んだ音は、所謂「良い音」とは程遠い人工的な冷ややかな音色で、切羽詰るとすぐにドヒャーと出鱈目な音を出して隙間を埋めまくる、ロープを掴んでる相手に金的を食らわすかの如き大反則野郎なのである。

 だが音を出した刹那、スピーカーコーンから溢れる世界観、そして音の持つ情報量は、一つのスタイルとして既にエスタブリッシュメントたる「泣きのギター」なぞ遠く及ばないのである。

 「ハイ・ライフ」は其の傾向がより顕著で、バックトラックはもう腐れフュージョンぎりぎりの突き抜けた明るさを放ち、ソニーのギターは其れをナタの様に切り裂く。

 中ジャケを見ると、フリー・ジャズミュージシャンのパブリックイメージから遠く離れた、満面の笑みを浮かべた彼の顔を認める事が出来る。此の余裕。最近デビューアルバムが再発されたので、買ってはみたものの、まるで面白く無かったのは、此の突き抜けた笑顔と余裕が無かったからだ。

 ちょっとギターを弾きたくなった。少しだけ、指がウズウズした。先日の日記で、俺のギタースタイルに対する誤解云々と云う話を書いたが、俺は矢張り此処に居るのが相応しい。

 実の所、ネストのライブでのコキリコ節での俺のギターは、全くソニー・シャーロックの出来損ないであった。其れ位、俺の中では重要人物なのである。